「travel」タグアーカイブ

【Party】旅の終わりに:伊勢→志摩→nadar

もうね、お伊勢さんに行ったときはバケツひっくり返したような雨ですた。

と言うわけで、今年の野外の〆『nadar Party BOHEMIAN@田曽白浜(三重県南伊勢町田曽浦)』に行って参りました!
今回、折角なので金曜はお休みをとって木曜の夜から宿浦に向かうスケジュール。
そう、折角行くんだったらお伊勢さんに行きたいしね。
例の件があったので、赤福が食べれないだろうなとも思いつつ仄かな期待を抱いて伊勢へ。
もちろん、閉店…….。
まぁ、残念ながらアレだけ列挙されちまうとなかなかね。
ただ、一個一個は実のところ大した話ではなくマスコミが必要以上に騒ぎ立てるので民衆が不安に陥り販売停止みたいな流れになっているような気がせんでもない。
ぶっちゃけ、表示基準に見あってない物は表示を見直せば良い話だしね。
再利用の件も、別に食中毒になるような事ではないので僕は別に良いと思うですよ、ええ。
腐った餡とか、腐った餅を使ってたわけではないし。
マスコミの連中も、殆ど現地取材とかしないで相当いい加減な記事書きまくってるのが滅茶苦茶気になる。
こいつらを取り締まる法律ないんですかね?

写真は波切の風景。なんだか、志摩や南伊勢の界隈は地中海チックなのです!

腹の立つ話はさておき、金曜は兎に角大雨!
まさに、バケツをひっくり返したような状態で刈谷を過ぎた辺りから余り前が見えなくなってきたほど。
ちなみに、木曜の夜に出たんですが東名の集中工事のため都内を全然出れず。
富士川に着いたときには、既に夜中の二時だったのでここで就寝。
今回、WINGROADを借りてたんでフラットになってとても良い感じでした!
(次回は、これに毛布も乗せればモアベター)
9時ごろ起きて、準備して一路伊勢へと言うルーチン。
そういえば、刈谷はハイウェイオアシスになってて観覧車とかもあったりショッピングも充実してたり。
今時のSAは凄いね。
伊勢湾岸道路は順調で、伊勢ICに14時ごろ到着。
今回は、外宮と内宮のみの参拝。
途中、麻吉旅館を覗こうと思ったけど車止めにくいのと雨で断念。
また、次回。
家に帰って、ご飯を食べたら一休み。
流石に疲れてたので、日が回る前に倒れる感じで次の朝。というか、昼。
ダラダラした後、志摩町のお祭経由で波切の大王崎灯台へ。
その風情は、何となく九份【ちょうふぇん】を思わせる風情。
亜細亜には、やはり似たような独特の空気があるのかなとひとしきり。
良いばしょでっせー、大王崎!
安乗埼灯台もよかったけど、こっちは断崖絶壁なので夕暮れがかなり美しい。
ちなみに、『境界』って書いた金属板があったんだけどこれは『熊野灘と遠州灘の境界』を差しているらしい。

続きを読む 【Party】旅の終わりに:伊勢→志摩→nadar

【都市と文化】さて、伊勢路とか 071009

来週には、伊勢方面なので。
たまたま、mixiの某板で絡まれまして。
別段あれだったのですが、ちょっと調べてみたいなぁと思い。
『伊勢路』ネタ。
そもそも、徒歩で熊野道を制覇する気はないんですがその片鱗は感じたいなぁなんてね。
そう言う訳で、調べとくにこした事は無いでしょう。
さて、起点を『田丸』としている理由あたり。
そもそも、田丸は現在玉城町(昭和30年、「所謂昭和の大合併」の時期に合併)と言うらしいですね。
駅名は残ってるけど。

伊勢といえば、赤福かなぁということで赤福本店。

で、なんで田丸だったんだろうという話なんだけどここは南北朝時代に北畠親房が南朝側の指導者として度会家行の援護を受けてた時代に城を造った場所。
結果はご存知の通り、南朝敗北で北畠親房は賀名生で死去。
城は廃城となると思いきや、伊勢神宮を押さえる要として北畠家が再建。
戦国時代には信長の伊勢侵攻に伴い、織田家の居城の一つになるが時代が時代だけに巡り巡り最終的には紀州徳川家の所領となりその附家老の一人久野氏の居城となり明治時代まで。
という訳で、1300年代中盤から明治期までまぁ常に時代時代にそこそこ権力のある人たちに庇護されていたという理由もあり栄えていたようです。
そのため、宿場としても整理されていたので拠点になったようですね。

神宮の大木は、荘厳さと畏敬を感じさせられます。やはり、神域は静謐でいいなと。

熊野詣に向かう人々も、一生に一度の旅なんで折角なので伊勢によりついでに西国33箇所という道行きをとる人が少なくなかったようです。
当然ですが、このルートは東国(江戸方面ね)の旅人が通るルートです。
梁塵秘抄でも歌われている位のルートなのですが、実際に頻繁に使われるようになったのは江戸時代。
やはり、伊勢界隈が紀州徳川家の預かりとなり初代藩主の徳川頼宣が一里塚や宿場を整備して行ったのが隆盛になった最大の要因なんでしょうね。
いわゆる『伊勢講』が盛んになるのは1700年頃。
その頃が、伊勢路が最も隆盛を極めたあたりになるよう(あ、もちろん「えじゃないか」までね)。
参宮にあたっては精進潔斎が基本となるので、古市は帰り道の道程の御楽しみになる訳だったりですがその後熊野にもうでる人はまだまだ精進潔斎が続くため起点を田丸としたというのが真相かなぁ。

続きを読む 【都市と文化】さて、伊勢路とか 071009

【都市と文化】過去ネタ:「京都」の雑記 050906

2004年当時の写真あるかなぁと思ったら、多分当時住んでいた近所の神社の御神体を撮影したと思われる写真が見つかるという。宇賀神ですね。これ。

これは、2004年01月の日記。
凄くふるいネタなんだけど、結構興味深い事が書いてあるので残す事に。
世界遺産ネタで、下鴨神社東寺や西寺にふれています。
ああ、神社ネタも書きたくなって来たなぁ。
先日行った、お伊勢さんが書きやすいかな?

京都といえば祇園祭なのですが、この祇園祭の始まりも疫病よけだったりと、伝統と文化には深い歴史が伴っていたり。毎日が学びです。

『はい、帰って来ました。ただ今、自宅です。
実家でのダラダラ生活も、今日で終わり。
ああ、また会社かと思うと気が重いね。
新幹線から降りた時よりも、家に帰り着いた時の方が実感が。
明日、休みにしといて良かったわ。と言いつつも、明日は免許の更新に行ったり色々やる事はあるが。

今日の『世界遺産』は京都!!
えへ、楽しみ。
やっぱり、京都は良いやねぇ。
桓武天皇による平安遷都より、もう既に1200年を越えてますが
今なお日本人ばかりか世界の人々を魅了して止まない都。
なかなかこういう所も少ないさね。
しかし、下鴨神社が京都最古の神社とは知らなかったよ。
びっくり。
最初は、東寺西寺しか許されなかった事も今日知った。
いやいや、勉強になります。

この頃、事あるごとに京都に足を運んでいたように記憶しています。もともと、仕事での大阪出張が多く、早終わりの時は大阪では遊ばず必ず京都に足を運んでいました。

東寺の講堂には、個人的にGOAがピッタリだと思いますw。
立体曼陀羅っつーと、まさにそのままパーティー空間のようなのです。
俗っぽいお寺と思わず、一度足を運んでみて下さいな。
あれは、その中に行って初めて分る威圧感と存在感です。
宗教って、凄いね。おわ!!
清水寺の創建者って、坂上田村麻呂だったの??
こりゃ、恐ろしく勉強になります。恐るべし、世界遺産。
2月にまた京都に行こうと思ってるので、ちょっと勉強になりました。

京都は、桜も綺麗です。東寺の五重塔を背景に撮影した一枚。最近、本当に足を運んでない。2006年4月撮影。

【追記】流石に、もう15年前の文章なんだけど軽いなーと。でも、この情報改めて見直してみてまた勉強になりました。今も昔も、好奇心のみでいきている感じですよね。しかし、思い起こせば年に何回も京都に行っていたなぁと思い出します。実際、写真も掘り起こすとたくさん出てくるし。大阪出張、本当に多かったんですよね、当時勤めていた会社でお願いしている印刷会社が大阪にあったことが大きかったと思います。あとは、子供がいなかったのもあるかな。今も深夜に帰っていることには変わりませんが、当時は忙しさの質が違ったと記憶しています。

ちなみに、東寺は教王護国寺とも呼ばれます。開祖は空海で、平安遷都と同時に建立された由緒あるお寺さん。そして、真言密教の総本山です。実際のところ、平安京時代の遺構としてはこの東寺以外には残っていないことは意外に知られていないと思います。源平合戦のあおりで京は荒れ、羅城門は倒壊し東寺西寺も没落。合戦後、鎌倉時代の安定期に入り皇室の後押しもあり徐々に復興。まさにこの時代に、今も残る立体曼荼羅を運慶を核とした慶派が請け負ったことが僥倖であったと僕は感じています。ある意味、呼ばれあった必然ではあるんでしょうけど。運命的視点でいうと、この東寺の復興期に西寺は五重塔が焼失し復興の目が断たれたことにも流れを感じてしまいます。幾多の戦乱を経て、何度も危機に見舞われた東寺ですが、今も往時の記憶を残す場所として開かれています。ただ、本当に今のように開かれた場所になったのは1965年だったりで最近なんですよねー。(2019/04/06 Noise)