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【デジタル関連】デジタルのお仕事について考えておきたいこと

このところ、デジタルマーケターという言葉がもてはやされて、この業界自体がかっこいい的な扱いになってきているような気がします。反面、デジタルシフトという言葉が先走っているが故に、上から言われたけど何をやればいいのかわからず途方に暮れている人も多くいるというのが印象。一応お断りしておくと、僕はデジタルマーケターではなくデジタルを中心軸としたメディアプランナーですので、同列では語れない部分がありますが、彼らのやっている仕事とかぶる部分も多いため、僕が考えるデジタルのお仕事との向き合い方について記述しておこうと思います。この中では、かなりキツイ言い方も出てくると思いますが、あくまで個人的見解であり全てにおいてそうであるとは言い切れないことは一応書いておきますが、それほど的外れではないと思って記述していった文章ではあります。

『デジタルは好きですか?学ぶ覚悟はありますか?』

いきなり重い話で始まっていますが、ここって実は一番大事なことなので最初に書きました。デジタルについては、わかっているつもりでも日々進化をしていくため、そのスピードについていくためには 日々吸収していく必要がありますし、クライアント側の立場にいるのであれば質問に答えていく責任があります。ただ、あまりに専門的なことが多いカテゴリーですので「わからないことを、わからないという」事も大事な責任だったりします。これは、代理店の営業担当者にも言える事なのですが、「わかったふりをしてしまう」事により致命的な誤謬が発生する事もあるため勇気を持って「教えてください」という事も大事。そこも含めての学ぶ覚悟です。プライド優先で、わからないと言えない人は僕的にはこの業務に就くべきではないと思います。あと、興味がないとそもそも学ぶ姿勢を取ることなどないので、人事に言われても辞退すべきです。自分を含め、関わる人全てが不幸になりますので。ただ、言われた時に興味がないことでも「新しいことにワクワク」し前向きに臨める人であれば問題ないかなと思います。

『ストレス耐性はありますか?我慢強いですか?』

ここ、どの業務にも共通して言えることなのかも知れませんが、デジタル業務はルーチンであることの方が少なく日々起こる事件に丁寧に対処しながらケーススタディを記録に残し、次なる業務をさらに改善の先に載せることになります。翻っていうと、安心して日々9時〜17時まで業務をこなし、夕方からは趣味の世界を謳歌するみたいな事はなかなか出来ないかなぁと。だけど、これ前段で書いたことではあるのですが「デジタルが好き」であればこの状況を逆手にとって「日々を学び」と捉えることができるためその状況を悲観しないのではないかと思います。合わせて、デジタルは決めてから発注するまでは早いのですが、 それまでに様々な考証を重ね「最終的なゴール」と「結果を可視化する」プロセスを見据えてプランニングする必要があるため実は前置きの部分にかなりの労力がかかります。ここをきちんと抑えることができる人間が、正しくデジタルを扱える存在であり、このプロセスを端折る人間はプランニングに関わるべきではありませんし、あなたが上司であれば関わらせるべきではないと考えます。

『自らの手でトラブルを解決するだけの意識がありますか?』

これも、考えようによっては「覚悟」だと思うのですが他の業務に比べ企業やユーザーに対する影響範囲がかかる費用の割に絶大で、一度出てしまったものが取り返せない割に意外に簡単に世に出せてしまうというものすごく難しいバランスがあります。特に、ウェブサイトについては自社の管轄下にあるためトラブルが発生した場合には自社でしか対応できないケースがしばしば。この際、デジタル担当の仕事は「決断」することに最も重きをおくことになります。この「決断」は外部パートナーである代理店やプロダクションには出来ないからですね。この決断を下すに当たってという視点では、本来担当は最低限プロダクションの言っていることの意味をきちんと理解しているべきで、それが出来ないのであれば更に学ぶ必要があるのです。とは言え、この知識が最初から身についているわけではないと思うので、最低限半年は専門知識のある人間を内部や外部パートナーにアサインしてもらい、判断時は必ず相談するというプロセスを経て学ぶ環境(OJTですね)を周囲に整えてもらうという事はお願いした方がいいでしょう。ただ、学校ではなく企業ですのでデジタルの基礎知識は自ら率先して学ぶということが当たり前の姿です。企業担当や代理店の営業として具体的な指示をせずに、外部パートナーに丸投げする人間は誰も幸せにしないと思います。というか、相手から信頼されないですよね。

『責任を取る覚悟がありますか?』

まぁ、正直企業で働いていて失敗したとしても殺される事はありませんw。だけど、誰かが責任を取る必要があるのは事実です。この責任を取る覚悟というのは「誰かのせいにしない」というシンプルな意識。トラブルが起きると、その対処のために多くの人が作業に関わることになり、企業の担当者や代理店の営業担当は「落とし所」のジャッジをすることになります。このジャッジがいつまでたっても行わなければ、直接パートナーのみならずその先にいるプロダクションなどのメンバーをずっと待機させることになります。それが故、企業内担当は「今回、このタイミングはここまではきちんと進めておきましょう。それが終わったタイミングで解散とします。」という判断をする責任があります。そうですね、責任をとるというか責任を持つということですね。代理店の営業担当で言うならば、クライアントの言質をとってその日のリカバリーのゴール地点と今後のスケジュールをジャッジすると言うことではないかと考えます。これが出来る代理店担当は信頼に値すると思います。もちろん、この際クライアントサイドに自分の言葉で「今日できること」「その作業でリカバリーできる範囲」「明日以降のスケジュール」について説明できる事が必須条件です。

『あなたはコミュニケーションを愛していますか?』

これは根幹かもなのですが、これがないとダメだなーって。作業としてデジタルコミュニケーションと向き合い、気にしているのは効率と数字のみの人間はコミュニケーションに関わって欲しくないし、関わるべきではないと思います。本質が見えないし。「なんとなくカッコ良い響きだから」という理由だけで、デジタルのみならずコミュニケーションに関わって欲しくないんですよ。僕は、コミュニケーションを愛しているので。考えてみたら、これが全てだし「これがあれば全部できんじゃね?」とか思ってみたりね。

つらつら書き連ねましたが、考えてみたらこれってデジタルに閉じた話ではなく外部パートナーとお仕事をしている全ての人たちに言える事ですね。僕は、外部パートナーは円卓に座るべき人たちだと思って仕事をしています。僕が嫌いな言葉は、「業者」と言う言葉。相手にそう言うことを言う人にも「は?」とか思いますし、自ら謙ってそう言う言葉を使う人にも疑義を感じます。そうじゃないでしょ。。。。。と言うことで、連休も終わりこれから最盛期に突入でいろいろ大変なのですが自分の中の気持ちを整理するためにも記述を残しました。

みんな、楽しくデジタルの仕事しようぜ!

【Diary】考えている事 071107

当時の写真は、今見ても独特の色を帯びていて「綺麗だなぁ」と思うと同時にどこか狂気のようなものを感じたりもします。それは若さかもだけど、単純なものではない何かがあるなと思うのです。
当時の写真は、今見ても独特の色を帯びていて「綺麗だなぁ」と思うと同時にどこか狂気のようなものを感じたりもします。それは若さかもだけど、単純なものではない何かがあるなと思うのです。

何と言うか、『まだ見ぬ何かを探す旅』というのは『終わる事の無い旅』で。
それが、『終わる事がない』と言う事実がその『渇き』を『行動』へと昇華してくれるのです。
その『昇華』の一つの形が、『パーティー』だったり『サイトの構築』であったり『文章』だったりするのですがその形は一つではなく『無限の可能性』を秘めた『』だったりするわけです。
僕を突き動かすその『華』への渇望は、『好奇心』
『知らないもの』を『知りたい』と言う気持ち。
これは、ある種の麻薬的な創造を僕の中に醸成してくれたり。
それは、『夢』と言う言葉でも語れるのかも。
所謂、睡眠下の状態で見る夢でも夢見る形で見る夢でもなく。
覚めてみる夢
なんだろう、それを常に追い続けているのが僕の人生。
そして、それが僕の生き様。

写真そのものが、当時の心象風景なのかもですが兎に角独特の色を帯びている。今の僕には、こんな色を帯びたひまわりは撮れんなあと。
写真そのものが、当時の心象風景なのかもですが兎に角独特の色を帯びている。今の僕には、こんな色を帯びたひまわりは撮れんなあと。

そういう意味で、僕はあまり『トブクスリ』を必要としていないのかもしれない。
常に、『幻想』と言う言葉で語るにはあまりに語りきれないけれどありていに言えばそのような状態にあるから。
『生きている事、そのこと自体がとても稀有な事でその事を大事にするのが生きると言う事』
それを与えてくれたのは、僕を生みそして育ててくれた両親。
そして、家族。
彼らの出会いが無ければ、この感覚を味わう事すら出来なかったと言う事実。
いや、『存在』すらなかったわけで父と母が出会いこの世に生を受けた事に感謝の念を隠す事は出来ない。
そして、ここまでの人生で『僕』と言う人間に関わってくれた人々。
REALとNETにかかわらず、多くの人と出会い別れていったと言う事実。
その事実によって、『今』がある。
その『今』を形成している事象は、須らくその『蝶の羽ばたき』の結果。

多分、独特の「眼」を当時は持っていたような気がします。今は今で、また違う視点なのでいまの視点も好きなのですが年を取った分だけエッジが柔らかくなった気します。
多分、独特の「眼」を当時は持っていたような気がします。今は今で、また違う視点なのでいまの視点も好きなのですが年を取った分だけエッジが柔らかくなった気します。

無意味なものなど、実はこの世の中に一つも無く『相対性』によって全ての『森羅万象』は成立し自らもその大きな流れの重要な事象として存在している事を強く感じる。
よく、『自分はちっぽけな存在』と認識する事でバランスをとる事もあるが最近は『αでありΩである』と言う言葉の方が実は事実なのではないかと思う事も多くなった。
なんだろう、全ての人がそうなのではないかと思うのだ。
そう、なぜなら『無意味』な存在などどこにも無いと思うからだ。
が故に、腹の立つ出来事すらも『何かの意味』があるに違いないと思い自らに必要なものとして受け入れなければならないと考えてみたりする。
そうすると、何故か楽になったりする。
それが、『生きる』と言うことの意味なのかもしれない。
最近、『死』という事について考えることがある。
実はその『死』も相対的な概念で、今の『生』と言う事実があるからあるのかと。

改めて読むと、やはり僕らしい言い回しが多いですね。何かを伝えたいというポイントを鉤括弧で囲む癖は今も同じ。ただ、この夢見るような言葉を使うことが減ったなぁと思うことしきり。なんだろう、もっと自由になった方がいいのかもですね。
改めて読むと、やはり僕らしい言い回しが多いですね。何かを伝えたいというポイントを鉤括弧で囲む癖は今も同じ。ただ、この夢見るような言葉を使うことが減ったなぁと思うことしきり。なんだろう、もっと自由になった方がいいのかもですね。

全ては、連綿と続く『流れ』の一部に過ぎないと考えれば別段焦る事実ではないのかとも。
でも、僕自身は『生きていた痕跡』をどこかに残したいと言う思いがあるので『渇き』に忠実に行動する。
それは、別に『誰かのため』ではなく『自分のため』。
それが結果として、誰かのためになるのならそれは重畳。
ただ、そのために行動する事はしない。
結果のために行動するのではなく、『渇き』のために行動するのだから。
それが、『生きる』と言う事でありその事を『感謝』し『享受』するために僕はまた新しい何かを探して旅に出る。

まぁ、実際こんなですもんね。当時。この時代があって、今があるわけで人って色々経験した方がいいよなーと思うのです。閉じこもってても、何も得られないしね。