【Diary】原爆と空襲、そしてルメイ叙勲―長崎原爆の日に考えた「対米従属」

第一章:8月9日という「個人的で決定的な日」

8月9日。毎年、僕はこの日に多くのことを考えます。この日は、日本という國にとって深痛な追悼の日であると同時に、僕という個人の存在にとっても、まさに「運命の分岐点」となった決定的な一日として。

1945年8月9日午前11時2分、長崎の街で一瞬にして7万人以上の尊い命が奪われました。放射線による後遺症を含めれば、その被害は十数万人以上にのぼります。まず何よりも、この惨禍によって犠牲となられたすべての方々に、深い哀悼の誠を捧げたいと思います。

この歴史の事実に触れる時、いつも複雑な思いに駆られるのです。この日、アメリカ軍のB-29爆撃機「ボックスカー」が目指していた第一目標は、長崎ではなく、僕の地元である北九州の「小倉」でした。

爆撃機は小倉上空へ到達し、投下態勢に入りました。しかしながら、現地は厚い雲と火災の煙に覆われ、投下目標を目視することができませんでした。この視界不良には、自然の天候だけでなく「人為的な要因」も重なっていました。前日である8月8日、米軍によって行われた八幡大空襲による凄惨な火災の煙や、製鉄所関係者が意図的に焚いたとされる煤煙が空を覆い尽くしていたのです。子供の頃はこの事実を知らなかったのですが、2014年の毎日新聞の報道で人為的な煙幕があったことを初めて知りました。この結果、小倉上空を3回旋回した末、燃料の限界を迎えた爆撃機は諦め、第二目標であった長崎へと向かいました。

原子爆弾投下目標だった小倉-北九州市平和のまちミュージアム

もし、あの朝の空が晴れ渡っていたら。もし、前日の八幡空襲の煙が流れていなかったら。小倉の街は一瞬で灼熱の地獄と化し、僕の祖父母や父はあの日、命を落としていたのではないかと(投下予定地のすぐ近くに住んでいたと聞いています)。そうなっていれば、いまこうして文章を書いている「僕」という人間はこの世に存在しないわけで。僕が今ここに生きているという事実は、誰かの犠牲と、歴史の残酷な偶然のうえに危うく成り立っているということについて毎年繰り返し考えるのです。

だからこそ、僕にとって8月9日は、単なる「遠い過去の出来事」でも「抽象的な平和の理念」でもなく。僕の血肉に直接つながる生々しいリアリティなんです。

偶然によってこの世に生を受けた身として、僕はこの命をどう使うべきか。それは、戦争の悲惨さをただ嘆くだけでなく、戦後の日本が直視することを避けてきた「歴史の闇」や「構造的歪み」から目を背けず、自らの頭で考え、発言し続けることではないのかなと。
僕らが当たり前のように受け入れている「戦後日本の正体」とは、一体何なのか。あの日から始まった問いを、いま改めて深めていきたいと思っています。
すでに、戦後81年となっていますので。

ここは、うちの地元小倉にある勝山公園。ここが、本来の爆心地になるはずだったところ。
1945年8月9日に投下された原子爆弾の「第1目標(小倉)」とされた旧陸軍造兵廠の跡地です。

第二章:消された「主語」と、無差別殺戮の構造

僕らが学校で習う歴史教科書を開くと、そこには不思議な「言葉の空白」があることに気づきます。「東京大空襲により多くの市民が犠牲になった」「広島と長崎に原子爆弾が投下された」というように、すべて「〜された」という受動態で書かれていました。
なんとなく、ふわっとしている表現で。。
あたかも大型台風や地震のような自然災害であったかのように処理され、「誰が、何の目的で、どのように実行したのか」という一番大切な「主語」が綺麗に削ぎ落とされています。

しかし、歴史の事実を見つめ直せば、これは自然現象などではなく、明確な意思決定のもとで行われた非戦闘員(民間人)の大量殺戮行為でした。
この無差別爆撃(エリア・ボミング)の作戦を立案し、現場で指揮を執ったのが、米陸軍航空軍のカーチス・ルメイ少将(当時)です。

1945年3月10日の東京大空襲において、ルメイは「木造住宅地を焼夷弾で焼き払い、民間人を殺傷して戦意を挫く」という作戦へ舵を切りました。マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)の基地から飛来したB-29爆撃機・約300機の大編隊(第20陸軍航空隊)は、逃げ惑う下町の住民を包囲するように焼夷弾を大量投下し、わずか一晩で約10万人もの焦土化と殺戮を行いました。単日の空襲としては人類史上最悪の犠牲者数です。
こういう事実も、あまり語られませんよね。そんな虐殺を行った土地に、いまだに「星条旗新聞社」などという体で不法占拠を続けているという神経が正直信じられませんし、それを許している日本政府もいったいどこまで腑抜けなのかと感じています。

この手法は東京だけにとどまりません。僕の地元である北九州(八幡・小倉など)をはじめ、大阪(約1万5,000人以上)、名古屋(約1万人)、横浜(約8,000人〜1万人)、そして富山や長岡など全国60以上の地方都市へ波及し、地方都市だけでも10万人以上の民間人の命が奪われました。

さらに、原爆に関しても同様です。広島では1945年末までに約14万人、長崎では約7万4,000人が亡くなりましたが、その後の放射線障害による遅れて訪れた死を含めれば、累計死者数は広島で34万人以上、長崎で19万人以上に達しています。これらは一般の爆撃部隊とは異なり、テニアン島に配置された原爆専用の特殊部隊「第509混成部隊」によって実行されました。

ルメイ自身、後に「もし我々が負けていたら、自分は戦犯として首を吊られていただろう」と認めていた通り、これらは明らかに国際法に違反する無差別殺戮でした。

そして恐ろしいことに、ルメイのこの「相手を破壊し尽くす」という思想は、太平洋戦争だけで終わりませんでした。彼は後に空軍トップ(参謀総長)へ上り詰め、ベトナム戦争初期には「北ベトナムを爆撃で石器時代に戻してやる」と豪語し、後の北爆(無差別爆撃作戦)の基礎を作り上げたのです。ベトナムも、日本と同じ目にあっているんです。この作戦、ローリングサンダー作戦と呼ばれているのですが、このローリング・サンダー作戦(1965〜1968年)期間中のアメリカによる北ベトナム爆撃における民間人の死者数は18万2000人と推定されているそうです。使った爆薬の量は、64万3千トン。日本との戦争に使った爆薬の総量が50万3千トンと言われていますので、いかにメチャクチャだったのかという話です。

「この虐殺を誰が決定し、誰が実行したのか」。この「主語」をあいまいにしたままでは、僕たちは歴史の惨劇から本当の教訓を得ることも、国家の暴走や不法行為を正しく批判することもできません。では、なぜ日本という国は、これほどの大量殺戮を指揮した人物やその構造に対して、戦後どのような態度を取ったのでしょうか。次に、その「戦後日本の歪み」について触れていきたいと思います。

第三章:屈辱の勲章と、戦後日本を縛り続ける「対米従属」

歴史の事実と主語を直視するとき、僕たち日本人が決して避けて通れない、最大級の「屈辱と歪み」を示す事件が存在します。それは1964(昭和39)年12月、当時の佐藤栄作内閣が、東京大空襲や全国の都市空襲、そして原爆投下作戦を指揮したカーチス・ルメイに対し、日本の最高峰の栄誉である「勲一等旭日大綬章」を授与したという決定です。
自国の何十万人もの民間人を焼き殺し、無差別殺戮の指揮を爆撃機部隊のトップとして率いた張本人に対して、自国の政府が最高位の勲章を自ら手渡したんです。
普通に考えて、ありえないですよね。まぁ、CIAに無心するような人ですからね。。。

政府が提示した表向きの理由は「航空自衛隊の創設や指導に貢献したため」というものでした。しかし、これほど国民を愚弄した政治判断があるでしょうか。当然ながら、広島・長崎の被爆者団体や空襲の遺族からは、「国辱であり、英霊や犠牲者への冒涜だ」と猛烈な怒りの声が上がりました。

この時、日本の政治の不甲斐なさに対し、極めて対照的で異例の対応をとられたのが昭和天皇でした。

通常、勲一等受章者は皇居に参内し、昭和天皇から直接与えられる(親授)か、拝謁して言葉を交わすのが長年の厳格な慣例です。しかし、この時ばかりは天皇からの直接授与も、天皇との拝謁も行われませんでした。手渡したのは当時の防衛庁長官であった小泉純也氏です。

東京大空襲から80年 米司令官への叙勲取り消しを市民らが政府に要請

大空襲や原爆で膨大な国民を失った昭和天皇が、その殺戮の指揮官と対面することを拒まれたこの「拝謁拒否」は、言わば皇室が示し得る最大限の無言の抗議であり、国民の痛みに寄り添った最後の一線であったと感じざるを得ません。そういう意味で、やはり陛下は國民を思っていたのだと改めて思います。

では、なぜ佐藤栄作内閣は、国民や遺族の強い反発、さらには皇室へのご負担を押してまで、ルメイへの叙勲を強行したのでしょうか。
その根底にあったのは、兄である岸信介元首相から引き継がれた、「アメリカの庇護と評価を得るためならば、自国の歴史的尊厳も国民の犠牲の記憶も差し出す」という対米従属の政治構造でした。当時、沖縄返還に向けた交渉や日米安保体制の堅持を最優先とした佐藤内閣にとって、米軍トップへのゴマすりと「日本はアメリカに忠実な従属国である」というシグナルを送ることの方が、亡くなった何十万の同胞の尊厳よりも重かったのではないかと推察します。

そして恐ろしいのは、この「アメリカの顔色を伺い、媚びを売ることが保守の役割だ」と錯覚する不健全な政治体質が、昭和の過去の話ではなく、いま現在も僕たちの目前で繰り返されているということです。
近年、日米地位協定の見直しや日米同盟の「対等な関係」への再定義、つまり真の意味での対米自立を模索しようとする現実的な動き(石破茂氏らが示そうとした問題意識など)が芽生えつつありました。自国がアメリカの言いなりでも従属国でもなく、対等な外交主体として自立していく——それこそが、主権国家として目指すべき当然の姿だからです。

しかし、そのせっかく見えかけた「対米自立への兆し」や「対等な外交への道」を、自民党内のタカ派や高市早苗氏らのように、トランプ政権やアメリカの強硬派に対して徹底的に媚び、迎合してみせるパフォーマンスによって、自ら台無しにしていくような光景を僕たちは見せつけられています。「強いアメリカ」に尻尾を振り、気に入られることをもって「強い外交」だと勘違いする構造は、まさに1964年にルメイに勲章を差し出した佐藤栄作内閣の姿と完全に重なるなと。いや、本当に情けない。靖国に参るのであれば、そこに眠る方々の思いについてあなた方は本当に考え寄り添うという意識はあるのかと、そう感じます。僕は、靖国ではなく千鳥ヶ淵に行きますが。
そして、国家神道を否定する立場ですので、基本は産土神を祀るお社に参ります。

自国の歴史と犠牲者を自分たちの手で踏みにじり、相手の顔色ばかりを窺う。この「去勢されたナショナリズム」と「歪んだ親米保守」の構造こそが、今なおこの国を縛り続け、自立のチャンスを芽のうちに摘み取っている真犯人なのではないでしょうか。これほどの屈辱を「仕方なかった」と容認してきた政治の延長線上に、現在の僕たちの社会があるのかなと改めて。

第四章:冷笑を捨て、自立した日本人として歩む道

自国の悲惨な歴史と、それを売り渡してきた政治の歪みを直視するとき、僕たちは時に強い怒りや無力感に襲われます。しかし、ここで単なる絶望やニヒリズム(虚無主義)に陥って「冷笑」することで片付けてしまっては、それこそ歴史の暗部を作り出してきた輩たちの思うツボです。僕たちが今やるべきことは、過去をただ呪うことでも、逆に現実から目をそらして自国を盲目的に美化することでもなくて。

日本の言論空間は長年、「自国の加害ばかりを強調する自虐的な立場」と、「アメリカへの従属を棚上げにして自国の行為を全面正当化するビジネス右翼的な立場」という、陳腐な二項対立に終始してきました。しかし、そのどちらも「対米従属の構造」と「主語の消失」という本質から目を背けている点では同じです。いずれも、現実をみてないんですよね。お気持ち的要素が強いというか、イデオロギーが強いというか。この辺の議論をするときには、本来「証跡=エビデンス」があるべきだと思うのです。

かつて明治の思想家・三宅雪嶺は、日本人が目指すべき姿として『真善美日本人』を説くと同時に、誇大妄想や追従に走る『偽醜悪日本人』を強く戒めました。真の愛国心とは、自国の誇るべき美徳や文化(光)を愛すると同時に、過去の過ちや構造的な醜さ(影)からも逃げずに自らの頭で抱え込み、客観的に直視する強さのことではないでしょうか。どっちかだけだと、やっぱりバランスを欠きますし、何より「自分のやったことについては目を瞑る」人の話って誰も聞いてくれないし、そもそも失敗を隠蔽するということは「学びを捨てる」と同義だと思っているのです。ここまで、受けた被害の話を列挙してきましたが、南京大虐殺や満州国立ち上げ、台湾や韓国で過去に起こした非道行為についても、正しく向き合うべきなんです。無差別爆撃でいうと、日本も「重慶爆撃」という酷い虐殺も行っていて。霧社事件や、三・一独立運動への弾圧、731部隊の非道についても正しく知って理解すべきだと思っています。

そのためにも、僕は日本の歴史教育のあり方を根本から見直すべきだと感じています。古代や中世の年代暗記に多くの時間を費やし、現代の僕たちの社会を形作っている明治以降の近現代史を駆け足で終わらせてしまう教育法には、深い疑問を抱かざるを得ません。「誰がどんな意思決定をし、どのように戦争が始まり、民間人の無差別殺戮へと至ったのか」。そして「戦後、どのような外交判断によって自立の機軸を失っていったのか」。この構造と主語を学ぶことこそが、海外の人々と対当に向き合い、真の意味でグローバルに自立した日本人として歩むための、最も重要な知性の土台になるはずです。結果的に、その方が強い意思を持った国民になれるのではないかとも思っています。

8月9日。あの日、北九州・小倉の空を覆った火災の煙と雲という「歴史の残酷な偶然」によって、親族は生き残り、僕はこうして生を受けました。誰かの命の犠牲のうえに生かされた身として、与えられたプロパガンダや思考停止に流される生き方だけはすべきではないなと。自国の歴史の光と影を真摯に見つめ、歪んだ対米従属の構造に抗い、自らの足で立ち、自らの言葉で考え発信し続けることは、ライフワーク的に続けるべきかなと。

戦後81年を迎える今、僕たちが「主語」を取り戻すための問い直しは、まだ始まったばかりです。ここまで読んでくださった皆さんも、「戦争が遠くなってしまった」今だからこそ、改めてこの國の光と影について学んだ上で、この國を理解し、好きになり、よくするために一人一人が何をできるのかについて考え行動してくれたら嬉しいなと思っています。

おすすめ

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください