「都市と文化」タグアーカイブ

伝統、日本、東京、京都など、日本の都市などにまつわる情報をまとめるタグとして扱います。また、このタグは固定ページ作成対象タグとします。

【Diary】国東半島を旅してきました 2日目:190505

前日の日記が、加筆に加筆を重ねて何故か廃仏毀釈の話に展開し長編となってしまったのですが…..。この日記は一体どこに向かうのでしょうかw?

さて、二日目は宿泊していた「和の宿 三國屋」さんからほど近い道の駅くにみからスタート。基本、お土産的なものが調達できればいいなぁー程度で寄ったのですが結構充実。そして、右手奥に広がる海と公園が!お子様二人が、「行きたーい!」と言うので足を運んでみたらきれいな砂浜が広がっていました。考えてみたら、ここってもう少し下ると佐賀関。有名な「関鯖」が上がるきれいな海なんです。いや、昔来てた時には気づきませんでしたが本当に美しい。ちょっと立ち寄るだけのはずが、一時間以上ここで過ごしていると言う。

大分の大きめの公園では、船の形の遊具が多いなぁと言う印象。それも、かなり大型の。これって、やはり土地柄が影響しているのでしょうね。 前日に立ち寄った甲尾山風の郷公園の遊具も船の形だったなぁと。それも、両方とも海賊船系。和田堀公園のは、汽船だし。東京にも、ああ言う感じのあるといいなと思いました。

5月は最も緑が美しい季節ではないかと。改めて、その美しさを国東で堪能しました。ここは、両子寺大講堂へ抜ける坂道。

次に向かったのは、六郷満山の中山本寺である両子寺。国東半島の中心にそびえる両子山の名前を頂くお寺さんで、山岳信仰の中心に当たります。この寺院にしても明治期の廃仏毀釈の被害は免れなかったようですが、関係者の皆さんの努力により今の形を保っているようです。ちなみに、廃仏毀釈で大講堂を燃やされたようです。多分、この際に貴重な仏像とかも破壊されたり盗まれたりしたんじゃないかなぁと。調べてみれば調べてみるほどなんですが、明治維新って中国の文化大革命みたいですね(涙)。たまたま調べてて出てきたのですが、当たり前ですが発端の山口で起こって歴史的には隠蔽されていた事件の話が書いてあったのでリンクを貼っておきます。 [ 明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷 ] また、脱線したので続きを。ここのお寺の奥の院は杵築藩の松平家から寄進されたものということでここにも庶流とはいえ三河の松平の系譜があったんですね。知らなかった。てっきり、北部九州には徳川の流れはないものだと思っていました。

こちらが、杵築藩主松平候によって1846年に寄進された奥の院。ここの裏側には、不老長寿の湧き水があったりします。

さて、ここ両子寺は先ほど書いた通り国東山岳信仰の重要拠点。と言うことで、手前のところになんだか鎖の設置された崖があるなぁと思っていたら、その奥がまさに修行場に続く道。と言うわけで、奥地まで進むことにしました。正確に言うと、子供二人が勝手に進んでいたので追いかけることに。奥に広がるのは、まさに道無き道で人が通ったことによって「ああ道なのかな?」と言う感じになっているけど、下手すると気づかない感じ。ところどころ、大岩があり「針の耳」や「鬼の背割り」と言った名所が出現します。普通に、楽しいです。これ!

三人待たせた状態だったのと、次なる行程への時間配分も考え山頂は目指さず鬼の背割りでUターン。それでも、結構な時間を費やしました。遊びに行った方は、ぜひこの鬼の背割りは見てほしい!いや、ほんと凄いから。

次に向かったのは、名刹富貴寺。ここ、知らなかったんですけど宇佐神宮の宮司一族宇佐氏によって作られた、個人的な阿弥陀堂だったんだそうです(とはいえ、西叡山高山寺の末寺ではあるのですが)。今回、初めてガイドさんのお話をお聞きしたのですがそのおかげで成り立ちを知ることができました。建物は、末法と言われた平安期の建物で、今も現存するこの時期の建物はこの界隈ではここしかないのではないかと思われます。それもあって、大堂は国宝。本尊の阿弥陀如来像や、大堂内部の壁画は重要文化財に指定されています。今回のガイドさんの案内がなければ、この内陣に施された浄土を描いた壁画についても知ることがなかったなぁと思うと言う部分でも貴重な体験でした。

正面の絵は皆さん撮影していると思うので、趣向を変えて横からの写真を。

旅の最後は、豊後高田の「昭和の町」。ここは、ひなびていく商店街を逆手に取り往時の街をうまく再現+保存しながら観光地化している場所。田舎町を知っている人ならなんのことはないかも知れないけれど、今となってはもうこのような原風景が残る場所は本当に数少なく。僕も、色んな土地をDJしながら旅しましたがほとんどシャッター街か、もっと言うと朽ちてしまっている町が大半。そんな中、このような形で街を残していこうとしている豊後高田の試みは評価すべきだと思いましたし、素直に面白くて楽しめました。揚げパンは、食べておいたほうがいい♪

と言うことで、今回の連休は大分国東界隈を満喫してきました。また、これからも連休このくらい余裕があるといいなーと思うことしきり。いや、ほんとこう言う形でないと休めないからね。もっと日本人、休んだほうがいいと思います。働きすぎー。と言うか、色々考える時間が欲しいところ。では!

ラスト一枚は、富貴寺の山門。七色の光が美しく撮影できたので。いい旅でした。

【Diary】国東半島を旅してきました 1日目:190504

 こんにちは。今、久しぶりに九州の実家に帰っています。長期滞在は、本当にひさしぶり。というわけで、こんかいは旅行も合わせて計画し国東半島(くにさきはんとう)に遊びに行ってきました。ここ、国東はさかのぼること1300年前に、「仁聞(にんもん)」という伝説の僧侶が「六郷満山(ろくごうまんざん)」と呼ばれる独特の山岳信仰を核とした宗教文化を築き、時代を経て様々な信仰を習合している土地。面白いのは、いわゆる山伏などによって守られる「山岳信仰」のあった土地に天台宗の密教文化がうまく融合し、そこに宇佐神宮の八幡信仰が習合しかなり複雑ではあるが独自の進化を遂げています。諸説ありますが、多分もともと宇佐神宮の信仰とは別に山岳信仰+天台宗=本山派の修験道があり、ここに地元で有力な宇佐神宮が習合したというのが僕の見立てのため、先のような書き方をしていることを付記しておきます。

 というのも、仁聞が千燈寺を開山したのが養老2年(718年。ここを契機に、六郷満山文化が展開。対して宇佐神宮の始まりこそ570年ごろと言われてはいるものの、実際に栄え始めたのは和銅5年(712年)に官幣社となってから。本格的な力を発揮していたのは、道鏡事件の前あたりからと思われ、この時期になると周辺を飲み込んでいたと考えられ宇佐神宮の力が国東に及んだのはここら辺からかなぁという読みなのです。ちなみに、この仁聞ですが恐らく後世において様々な人々の功績を纏めて一人の人物を作り上げたもので恐らくそこの地に根付く信仰を人格化した思想を体現するものではないかと感じています(仁聞菩薩とも呼ばれていますしね)。現実的に考えて、一人で28の寺院を建立し管理運営することは難しいですが、それぞれの土地に根付く信仰を思想的に束ねて収斂して行く上で、このような人物の存在を創ることが一つの時代の知恵であったのではないかとも考えました。

いつきても、鮮やかな本殿界隈。この神宮の美しさは、新緑の季節が一番際立つのではないかと思うのですが紅葉の季節もまた格別だという話です。
続きを読む 【Diary】国東半島を旅してきました 1日目:190504

【Diary】2月に入って落ち着いたろうと川崎大師へ 190211

毎年、恒例の川崎大師詣ですが今年は思い切って2月にしてみました。それも、こんな2月の半ば。いや、過去の日記にも出ていますが毎年凄い人出でカオス化してて、買いたい住吉屋総本店の久寿餅も買いそびれるくらい。焦っていかなくても、ゆっくりすればいいやんということで今回は遅らせてみたという次第です。

そんなこんなで、計画時はのんびりと構えていた一家ですが、よう実というか前日に「雪」というまぁまぁハードルの高い自然現象が発生することに気付きまして。でも、のんびり一家なので「まぁいっか」くらいで予定は変更せず。そして、最近は平日飲み会続きで死亡遊戯状態の私が11時ごろ起床するという体たらく。でも、そこから頑張って部屋の片付けして準備してとバタバタしてなんとか12時半過ぎに出発。

続きを読む 【Diary】2月に入って落ち着いたろうと川崎大師へ 190211

【都市と文化】大宮八幡宮で、流鏑馬見て来ました! 130526

いやー、やっぱ本物は凄いや!!
週末は、龍さんと一緒に流鏑馬神事を大宮八幡で見てきました。
大宮八幡宮御鎮座九百五十年流鏑馬神事。
由緒正しき、小笠原流です。
http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/
子供には、本物を見せるべきだなと、改めて思った週末でした。

【都市と文化】さて、伊勢路とか 071009

来週には、伊勢方面なので。
たまたま、mixiの某板で絡まれまして。
別段あれだったのですが、ちょっと調べてみたいなぁと思い。
『伊勢路』ネタ。
そもそも、徒歩で熊野道を制覇する気はないんですがその片鱗は感じたいなぁなんてね。
そう言う訳で、調べとくにこした事は無いでしょう。
さて、起点を『田丸』としている理由あたり。
そもそも、田丸は現在玉城町(昭和30年、「所謂昭和の大合併」の時期に合併)と言うらしいですね。
駅名は残ってるけど。

伊勢といえば、赤福かなぁということで赤福本店。

で、なんで田丸だったんだろうという話なんだけどここは南北朝時代に北畠親房が南朝側の指導者として度会家行の援護を受けてた時代に城を造った場所。
結果はご存知の通り、南朝敗北で北畠親房は賀名生で死去。
城は廃城となると思いきや、伊勢神宮を押さえる要として北畠家が再建。
戦国時代には信長の伊勢侵攻に伴い、織田家の居城の一つになるが時代が時代だけに巡り巡り最終的には紀州徳川家の所領となりその附家老の一人久野氏の居城となり明治時代まで。
という訳で、1300年代中盤から明治期までまぁ常に時代時代にそこそこ権力のある人たちに庇護されていたという理由もあり栄えていたようです。
そのため、宿場としても整理されていたので拠点になったようですね。

神宮の大木は、荘厳さと畏敬を感じさせられます。やはり、神域は静謐でいいなと。

熊野詣に向かう人々も、一生に一度の旅なんで折角なので伊勢によりついでに西国33箇所という道行きをとる人が少なくなかったようです。
当然ですが、このルートは東国(江戸方面ね)の旅人が通るルートです。
梁塵秘抄でも歌われている位のルートなのですが、実際に頻繁に使われるようになったのは江戸時代。
やはり、伊勢界隈が紀州徳川家の預かりとなり初代藩主の徳川頼宣が一里塚や宿場を整備して行ったのが隆盛になった最大の要因なんでしょうね。
いわゆる『伊勢講』が盛んになるのは1700年頃。
その頃が、伊勢路が最も隆盛を極めたあたりになるよう(あ、もちろん「えじゃないか」までね)。
参宮にあたっては精進潔斎が基本となるので、古市は帰り道の道程の御楽しみになる訳だったりですがその後熊野にもうでる人はまだまだ精進潔斎が続くため起点を田丸としたというのが真相かなぁ。

続きを読む 【都市と文化】さて、伊勢路とか 071009

【都市と文化】asian chaos:新宿歌舞伎町の街歩き 051023

今見ると、ほんと下手だなぁ構図の取り方って写真。何でこういう見切れた写真なのかと(苦笑)

僕は、昔から歌舞伎町という街が好き。
人の生き死にが表裏一体で混在してるあの感じ。
亜細亜の繁華街に共通するあの臭いがするのは、東京だとここが一番濃いのかなぁって感じで。
最早遠い昔となりつつある第二次世界大戦中の東京大空襲にて一面焼け野原となった『角筈【つのはず】』『三光町【さんこうちょう】』界隈を、歌舞伎演舞場等等の演芸施設を集め娯楽の一大センターにする夢を託して名付けられた町名。
しかして、予算の都合で結局歌舞伎は誘致出来はしなかったが『コマ劇場』がその代わりを務め『家族向け』とは言えないけれども数多くの人の思いを飲み込みそして新しい息吹を良い意味でも悪い意味でも送り込む歓楽都市として再生された事は誰の目にも疑いは無い。
最近、蛇頭の台頭などで「外国人が暴れてて怖い」的に扱われている歌舞伎町なのだが実際の所この町をここまでに育て上げたのが実のところ戦後当時から日本で活躍していた台湾華僑であるという事をご存知であろうか?

続きを読む 【都市と文化】asian chaos:新宿歌舞伎町の街歩き 051023

【都市と文化】素晴らしい試み:金沢に於ける旧町名復活

祭繋がりで、『長崎くんち』を調べていたら「銀屋町鯱太鼓」のページに行き当たりまして。
現在の古川町の界隈の昭和41年の悪名高き町界町名改正前の地名は、「銀屋町」だったそうでその名前を復活させるべく動いている模様です。
「その手があったか!」
正直、気付きませんでした。
いや、ここのところあの改正と同様の補助金を人質に取った中央集権的圧力による市町村合併が進められてるじゃないですか。
あの所為で、気付いてない人も多いかもしれませんが日本全国でまた地名が消えて行ってるんですよ。
そればかりか、市町村名を「ひらがな」や「カタカナ」に変える市町村まで出てくる始末……。
そんな中、金沢市ではその馬鹿げた時代の流れに逆行する様に金沢市では旧町名復活に向けて動いているようなんです。

photo from https://mainichi.jp/articles/20161115/org/00m/040/011000d

「旧町名は土地の歴史を刻み、住民の暮らしを示し、自然を映した、その土地に固有の、かけがえのない名前です。よく「地名は貴重な歴史遺産であり、文化遺産である」と言われますが、まさにそのとおりです。……例えば、鷹匠町は現在 の石引四丁目の一角で、鷹を操った匠が住んでいたという謂(いわ)れを持っています。そういう町の謂れを知れば、住んでいる人は自分の町に愛着や誇りを持つはずです。そうすれば、ゴミを放っておくことはできない、隣近所とも仲良くしよう、子どもたちも大事 にしなければならない、という気持ちがわいてきます。私は、そこを大事にしたいのです。」ここなんですよね。
今日、川越祭に行って思ったんですが町はその祭りによって何だか連携してるんですよね。かつ、その曳航されている山車は殆ど旧町界の括りで分かれている様子。
そう言うの見てると、「ああやっぱり大事だよな。こういうの。」って思うんです。
神田界隈も、地元の意思で残した地名が結構あって面白い事になってるし。
しかし、国家公務員による行政の変更を地方自治体から申し入れてそれが通過するという事を初めて知りました。
この国って、何でも一律化したがるけど結構そういうボトムアップもありだったんですね。ちょっと見直した。
この調子で、色んな自治体が歴史的に意味のある地名の復活に向けて動いてくれるともっと文化の豊かな国になりそうな予感です。その事に期待。
やっぱね、文化は大事だよね。未来の日本の存在意義の為にも。

【追記】残念ながら、ここで書いていた鷹匠町は復活していないのですが、金沢市内で複数の旧町名が復活しています(旧町名復活区域位置図(現在))。たとえ国が決めてしまったことでも、その土地に根ざした人々が改めて考え、自分たちの意思で再構築することで地方の存在意義が出てくるのではないでしょうか?考え、そして行動することができる地域はその先に向かう未来に向かって歩を進めることができると思うのです。昨今、少子高齢化が進み今まで通りでは様々なことが立ち行かないことが言われています。確かに、昔に比べ利便性が上がったのが戦後。だけど、その全てを維持しようと考えることに無理があるのも現実です。「残すもの」「捨てるもの」「新しく作るもの」。それぞれを丁寧に、その土地に住む人々が考え整理し、新しい形を作ること。これができれば、地方がなくなることはない気がしています。だって、丁度100年前1920年(大正9年)の日本の人口55,96万人だからさ。たった100年で倍に増えたことの方が異常だよw(2019/02/23 Noise)

【Appetite】伊勢うどん、食べたいな。 051008

いつも、三重に行くとわがままを言って『おかげ横町』に行きます。いやね、あの町の雰囲気が好きなんですよね。
それだけではなくて、その先にある伊勢神宮内宮が主要な目的だったりするんですけどねw。
とはいえ、かならずここには寄ってはしゃいでから詣でる事にしてます。で、毎回の様に食べるのが『伊勢うどん』。
僕は、いつも『ふく助』で食べてる気がします。
違う店で食べてみても良いんだけど……。
という事で、『伊勢うどん』ってそもそも何なの?ってことを調べてみる事に。

ふくすけの店内ですが、もちろんレプリカとは思うのですが昔の「伊勢講」の看板がたくさん掲げられていて風情があります。

元はと言えば、これって普通にこの界隈の家庭料理だったみたいです。
お饂飩にかけていたのが、たまたま『溜豆油【たまり】』だったのが今のたまり醤油を使う由来みたいですね。
溜豆油というのは、和歌山の湯浅(醤油発祥の地と言われている地の一つ)で作っていた金山寺味噌の上澄み。
この話は、また別に書く事とします。
その昔、上澄みは捨ててたって言うんだから勿体ないよね。
僕は、たまり醤油が好きなのでなおさら。
まぁ、その湯浅からほど近い(まぁ車も無いからもの凄く近いとかではないけど)当時の大観光地『伊勢』はその醤油の大きな消費地の一つだったようで。
そんな中、伊勢界隈の各家庭で自家製の溜豆油を作る様になりそれを饂飩にかける様になる。
何となく、自然な流れの様に感じます。

続きを読む 【Appetite】伊勢うどん、食べたいな。 051008

【都市と文化】犬矢来[いぬやらい] 050921

2006年1月、京都の東本願寺界隈での写真。当時は、よく京都に遊びに行っていました。まぁ、DJやっていたというのもあるし、何より子供いなくて気軽な暮らしだったのもありますねw。

犬矢来【いぬやらい】
円弧状の反りのついた割竹や細い桟木を並べた柵のこと。
大概の場合、家の外側には石や砂利で作られた「犬走り」がありその上にかけられたもの。
そもそも、「犬走り」というくらいで「犬走り」の上では犬の粗相が多々あり悩まされることが多かった模様。その対策としてできたのが、「犬矢来」の始まりだったとか。

でも、それ以外にも京都なんかでは祇園は繁華街というのもありたっしょん避けと言う意味合いもあったということを他のブログで読んで納得するとともに笑っちゃいました。
泥棒避けの意味合いもあったみたいです。あら、人避けやん!
花街では、雨宿りをさせないという目的もあった模様。何せ、料亭と言えば密談!「越後屋、お主も悪よのう。」とか話てるの、丸聞こえだったら皆使わないもんねw。
横道にそれましたが、泥はねや雨滴から建物外壁の損傷を防ぐためにも活用できるということで、京都祇園の町屋などの外側に配置され今でも日本的情緒を感じること多々あります。
似たような感じの「駒寄せ(別名:駒繋ぎ、牛繋ぎ)」との大きな違いはこちらの多くが可動式であるということ。
そういう訳で、掃除もしやすい!
「駒寄せ」が何故固定式かというと、その名の通り馬や牛を繋いでおくために発展してきたものだから。
そういう歴史を知ると、また何だか感慨深いものがありますねぇ。

こちらが駒寄せ。此の写真も、東本願寺界隈です。駒寄は、いろんなデザインがあっておもろいです。なんとなく、テリトリーを緩やかに表す道具としても機能していたのではないかなぁと思います。

ちなみに「矢来」とは細い竹や丸太を菱形に組んだもので、別名「刑場垣」。
時代劇で磔【はりつけ】にされてるシーンとかで、竹を組んで人避けしてるシーンとか出てくるでしょ。
あれが、そもそも。
「矢来=ヤライ」はそもそも音から来ていて「遣ひ【やらい】」の音が大本で、「入るを防ぐ」という言葉を意味している。
戦国時代に仮城を組む時とかにも、使われていたみたいです。

【都市と文化】過去ネタ:「京都」の雑記 050906

2004年当時の写真あるかなぁと思ったら、多分当時住んでいた近所の神社の御神体を撮影したと思われる写真が見つかるという。宇賀神ですね。これ。

これは、2004年01月の日記。
凄くふるいネタなんだけど、結構興味深い事が書いてあるので残す事に。
世界遺産ネタで、下鴨神社東寺や西寺にふれています。
ああ、神社ネタも書きたくなって来たなぁ。
先日行った、お伊勢さんが書きやすいかな?

京都といえば祇園祭なのですが、この祇園祭の始まりも疫病よけだったりと、伝統と文化には深い歴史が伴っていたり。毎日が学びです。

『はい、帰って来ました。ただ今、自宅です。
実家でのダラダラ生活も、今日で終わり。
ああ、また会社かと思うと気が重いね。
新幹線から降りた時よりも、家に帰り着いた時の方が実感が。
明日、休みにしといて良かったわ。と言いつつも、明日は免許の更新に行ったり色々やる事はあるが。

今日の『世界遺産』は京都!!
えへ、楽しみ。
やっぱり、京都は良いやねぇ。
桓武天皇による平安遷都より、もう既に1200年を越えてますが
今なお日本人ばかりか世界の人々を魅了して止まない都。
なかなかこういう所も少ないさね。
しかし、下鴨神社が京都最古の神社とは知らなかったよ。
びっくり。
最初は、東寺西寺しか許されなかった事も今日知った。
いやいや、勉強になります。

この頃、事あるごとに京都に足を運んでいたように記憶しています。もともと、仕事での大阪出張が多く、早終わりの時は大阪では遊ばず必ず京都に足を運んでいました。

東寺の講堂には、個人的にGOAがピッタリだと思いますw。
立体曼陀羅っつーと、まさにそのままパーティー空間のようなのです。
俗っぽいお寺と思わず、一度足を運んでみて下さいな。
あれは、その中に行って初めて分る威圧感と存在感です。
宗教って、凄いね。おわ!!
清水寺の創建者って、坂上田村麻呂だったの??
こりゃ、恐ろしく勉強になります。恐るべし、世界遺産。
2月にまた京都に行こうと思ってるので、ちょっと勉強になりました。

京都は、桜も綺麗です。東寺の五重塔を背景に撮影した一枚。最近、本当に足を運んでない。2006年4月撮影。

【追記】流石に、もう15年前の文章なんだけど軽いなーと。でも、この情報改めて見直してみてまた勉強になりました。今も昔も、好奇心のみでいきている感じですよね。しかし、思い起こせば年に何回も京都に行っていたなぁと思い出します。実際、写真も掘り起こすとたくさん出てくるし。大阪出張、本当に多かったんですよね、当時勤めていた会社でお願いしている印刷会社が大阪にあったことが大きかったと思います。あとは、子供がいなかったのもあるかな。今も深夜に帰っていることには変わりませんが、当時は忙しさの質が違ったと記憶しています。

ちなみに、東寺は教王護国寺とも呼ばれます。開祖は空海で、平安遷都と同時に建立された由緒あるお寺さん。そして、真言密教の総本山です。実際のところ、平安京時代の遺構としてはこの東寺以外には残っていないことは意外に知られていないと思います。源平合戦のあおりで京は荒れ、羅城門は倒壊し東寺西寺も没落。合戦後、鎌倉時代の安定期に入り皇室の後押しもあり徐々に復興。まさにこの時代に、今も残る立体曼荼羅を運慶を核とした慶派が請け負ったことが僥倖であったと僕は感じています。ある意味、呼ばれあった必然ではあるんでしょうけど。運命的視点でいうと、この東寺の復興期に西寺は五重塔が焼失し復興の目が断たれたことにも流れを感じてしまいます。幾多の戦乱を経て、何度も危機に見舞われた東寺ですが、今も往時の記憶を残す場所として開かれています。ただ、本当に今のように開かれた場所になったのは1965年だったりで最近なんですよねー。(2019/04/06 Noise)