【Diary】旅の記録:国東半島を旅してきました 1日目:190504

 こんにちは。今、久しぶりに九州の実家に帰っています。長期滞在は、本当にひさしぶり。というわけで、こんかいは旅行も合わせて計画し国東半島(くにさきはんとう)に遊びに行ってきました。ここ、国東はさかのぼること1300年前に、「仁聞(にんもん)」という伝説の僧侶が「六郷満山(ろくごうまんざん)」と呼ばれる独特の山岳信仰を核とした宗教文化を築き、時代を経て様々な信仰を習合している土地。面白いのは、いわゆる山伏などによって守られる「山岳信仰」のあった土地に天台宗の密教文化がうまく融合し、そこに宇佐神宮の八幡信仰が習合しかなり複雑ではあるが独自の進化を遂げています。諸説ありますが、多分もともと宇佐神宮の信仰とは別に山岳信仰+天台宗=本山派の修験道があり、ここに地元で有力な宇佐神宮が習合したというのが僕の見立てのため、先のような書き方をしていることを付記しておきます。

 というのも、仁聞が千燈寺を開山したのが養老2年(718年。ここを契機に、六郷満山文化が展開。対して宇佐神宮の始まりこそ570年ごろと言われてはいるものの、実際に栄え始めたのは和銅5年(712年)に官幣社となってから。本格的な力を発揮していたのは、道鏡事件の前あたりからと思われ、この時期になると周辺を飲み込んでいたと考えられ宇佐神宮の力が国東に及んだのはここら辺からかなぁという読みなのです。ちなみに、この仁聞ですが恐らく後世において様々な人々の功績を纏めて一人の人物を作り上げたもので恐らくそこの地に根付く信仰を人格化した思想を体現するものではないかと感じています(仁聞菩薩とも呼ばれていますしね)。現実的に考えて、一人で28の寺院を建立し管理運営することは難しいですが、それぞれの土地に根付く信仰を思想的に束ねて収斂して行く上で、このような人物の存在を創ることが一つの時代の知恵であったのではないかとも考えました。

いつきても、鮮やかな本殿界隈。この神宮の美しさは、新緑の季節が一番際立つのではないかと思うのですが紅葉の季節もまた格別だという話です。

 初日の5月2日は、宇佐神宮へ。三大八幡として有名な神社です。ここ、神社本庁の介入の所為で、内部機構は滅茶苦茶にされちゃってあろうことか創建一族である宇佐家の末裔到津家を追い出すという「ぇ?」という事件が。まぁ、この辺は例の日本会議がらみの「田中恒清」氏が暗躍してたんですよね。本来、神社というのは土地神様でよそ者が介入すべきではないところ。その意味では、神社本庁の頂点と言われている伊勢神宮ですら本来土地神様で伊勢信仰も明治政府によって歪められた部分が多々あるのも事実。結果論ですが、このところ神社界隈で起きている問題の端はこの神社本庁が原因のケースがあまりにも多いので、一度解体して再構築した方がいいなぁとかいう感じですよね。JASRACと同様。この界隈の癌については、この記事が面白いので読んでみてくださいね!明治神宮(一応和解し2010年に復帰していますが、当時のやりとりを見ていると酷いなぁと思います)や、日光東照宮、気田大社のような名のある神社が離脱する組織というあたりで推して知るべしですよね。

神社本庁「恐怖政治」の実態、地方の大神社で全面戦争も

その視点でいうと、明治維新後に起こった「国家神道」といういびつな概念のせいで『神仏分離→廃仏毀釈』が民衆の中で発生。このような愚策の結果、宇佐神宮にあった神宮寺「弥勒寺」も廃寺となってしまった訳です。さて、これはあまり知られていないというかテレビ番組によって美化されている水戸光圀という人物がいるのですが儒教への傾倒が強く水戸藩内で神仏分離を強行。結果として、2,400近くあった寺院のうち1,000以上の寺を処分し、そのうち700寺を廃寺に。この活動ののち、次は「八幡潰し」と呼ばれる習合神叩きを断行。いや、ほんと蛮族(苦笑)。

 この儒教をベースとした水戸光圀が起こした実学系の学問体系が「水戸学」で、この水戸学をベースとした思想を極端に再解釈したのが吉田松陰で精神論をベースの思想塾「松下村塾」を勃興し玉砕型テロリズムを純化したのが長州ベースの明治維新。鍋島の学術的思想をベースとした派閥も、玉砕型には勝てずに主流派を握れず結果として長州閥が大きくなった結果、件の「太政官布告」につながるという。結果論ですが、「江戸幕府=仏教」的な見え方になっていた時代なので今の中国における「愛国正義」的な活動でもあったのではないかと考えます。残念なことに、この煽りが一番ひどかったと思われるのが薩摩藩。島津家由来の菩提寺まで全て打ちこわし、お寺がゼロになるという事態に。いや、ほんと明治維新って偉業のように語られますが実際に起こっていた出来事はテロによるクーデターとそれに便乗した略奪と破壊の負の歴史の側面も大きかったのだろうなと。

 そういえば、うちの近所の大円寺は島津家の菩提寺だったりします。破壊されていなくてよかった。明治初期に力を持っていた宗教の文化的融合に肯定的だった平田派がもう少しうまく機能していたら(とはいえ、平田派の中核思想が「一神教」のような過激思想を生み出したことは間違いないのですが、後年本来の日本の神道が持つ全てを飲み込む丸山真男氏がいうところの「無限抱擁性」を取り入れているという視点での話です)、こうはならなかったかもしれませんが結果としては長州派閥が大日本帝国憲法を編纂するにあたり宗教としての「神道」が邪魔になり平田派の発言力は衰退。結果として、「松下村塾系の国学→国家神道」という水戸学的な発想に進んでしまったという話。そして、その国家神道を司っていた組織がGHQによって解体された神祇院の機能を継いだ神社本庁(こんな名前だけど、民間組織)。その流れで言うと、現在の山口を母体とする安倍氏を中核とした今の「教育勅語」や「国家神道」的な流れはなんだかしっくりくると言うパラドキシカルな理解。この廃仏毀釈って実は14世紀に始まった李氏朝鮮時代の韓国が儒教の朱子学を国学に据えた時代にも起こっており、ここからかなりの時間をかけて韓国の仏教はほぼ絶滅に近いレベルで破壊されていたり。そこから考えると、まだ日本での廃仏毀釈はマシだったのかもしれません。

これは、クラウス号明治中期にドイツからやってきた蒸気機関車。こういうファミリアな感じのものも一緒くたになっているあたりが、地方観光のいいところかなぁと個人的に思います。

 あ、脱線した。さて、宇佐神宮。内部のゴタゴタはありますが、それは人が為すところであり神社のありかたには関係のないことなのかという感じで相変わらず静謐な場所でした。というか、ほんと広い!祓所(はらえど)と呼ばれている舞台は、池の上にあり恐らく神職の方たちが禊に活用した場所。こういう場も、他でも見たことのない独特の形だったり。大きな神社って、歴史の中でそれぞれの文化を形成してきたんだろうなーとか。なんせ、源平合戦期の大宮司・宇佐公通の妻は平清盛の娘だったりでどれだけの権勢を持っていたのかという話で道鏡事件を含め、一時代は中心をなす神社であったことがうかがわれる訳で。そういう意味でも、土地神様とはいえ中央との繋がり深く文化的にも政治的にも大きな力を持っていたことは想像に難くありません。

 合わせて、英彦山や求菩提山のような神仏習合型の山岳信仰が今も多く残っていることにより、そこに関係する多くの人存在し、その人々によってが守られたからこそ今があるのかもですね。本州と海で隔てられ、水戸学などの影響を大きく受けて来なかったことも幸いしているように感じます。もう一つ、これは予測に過ぎないのですが僧侶を重用した徳川の威光があまり及ばなかった九州北部ではなんとなく生活と寺社仏閣が融合しており、それほど大きな格差を生まなかったことも起因しているのではないかと。というのも、廃仏毀釈に関していうのならもちろん政策の問題もあるのですがそれ以上に民衆の暴走(というか略奪?)という部分も大きくあり江戸時代に積み重なった恨みつらみが暴発したのもあるのではないかなぁという感じで。本州は政治と融合した仏教という側面が強かったと思われますが、農村部においては生活に融合した仏教の側面が強かったのではないかと感じます。あくまで予測ですけどね。

当日、天気が良かったのもあったのと、5月ということで新緑が美しいことも重なり色々鮮やかな緑の写真が撮影できたのもラッキーだったなぁと。ちなみに、ここが「祓所(はらえど)」です。内宮の五十鈴川と違い川ではないので、水はどんよりしてるんですけどねw。

そういえば、日本全国に言えることですが、外国人観光客が本当に増えましたね!これはアジア人に限らず、欧米の方たちも多数。僕が九州に住んでいた時には、想像ができなかったくらいです。もちろん、交通網が発達したこともあるのだとは思いますが、何よりインターネットが発達し「情報」が広くあまねく広がるようになったこと、またInstagramなどのツールの発展で現地の写真をリアルに見ることができるようになったことで「行ってみたい!」を刺激することができるようになったきたことも多いのでしょう。だって、これまではガイドブックに載るか載らないかで全てが決まっていたところが、お金を払わずとも民間の方たちがオーガニックに告知を行ってくれるという現象が発生し、結果としたガイドブックがなくとも「行く価値」を可視化してくれるエコシステムが回り始めたからだと思います。これって、遡ると神社本庁が嫌がった「電子化」の結果だったりもするんですよね。やはりね、テクノロジーは活用すべきですよ。ほっといても広がるのですが、そこにはきっかけが必要なので。

これが、熊野磨崖仏。かなり険しい山を登った後に出てくる磨崖仏なのです。不動明王のなのに、優しい顔つきなのがまた印象的。

さて、2日に巡ったもう一箇所が熊野磨崖仏。ここは、六郷満山信仰の一つなのですが下にある大衆的なお寺「胎蔵寺」とはまた違って山岳信仰的空気感満載な場。今も綺麗に残っていますが、平安時代後期の仏像です。六郷満山峯入は、この地で大護摩を焚いて本格的にスタートするのだとか。見てみたいなぁ。国東の磨崖仏は、ここ以外に「鍋山磨崖仏」「大門坊磨崖仏」「元宮磨崖仏」がありますが、一番大きなのはここ。だけど、ちょこっと軽くみてみたいのであれば他の三つの方が気軽に足を運べます。最初は綺麗な石段で登っていくのですが、熊野磨崖仏への最後の階段は、鬼が一晩で作ったと言われていたりして階段というより石積みという印象の道。ちなみに、福岡出身の人間なら聞いたことはあると思う求菩提山の石段もこう言う伝説ありましたよね。まぁ、みんな端は同じところにあるのでしょうね。ここの階段、かなり急勾配で、雨後はちょっと難しいかなぁという印象でした。特に、足腰が弱ってきている父母には厳しかろうなーと言う印象。にしても、登る価値あるよ!奥の院はここまらまた数十メートル上がったところなのですが、古びた建物で風情がありました。本来、この右の大日如来とセットなのですが、この不動明王が印象的すぎて。

右側は、大日如来。こちらは、かなり正統派な感じの端正なご尊顔。もともと、光背がなかったのですが後で追加されたようですね。

最後は、真木大堂によってまさかの鐘つきを行って正日は終了。のんびりした1日になりました。

宿泊した三國屋さんの裏手にあった、慈雲寺という曹洞宗のお寺さん。もう、多分住職がご高齢なのか正面の山門は使っていない感じでした。しかし、この風景がまたいい感じでした。

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