2007年10月。お祓い町の五十鈴茶屋にて。

【都市と文化】さて、伊勢路とか 071009

来週には、伊勢方面なので。
たまたま、mixiの某板で絡まれまして。
別段あれだったのですが、ちょっと調べてみたいなぁと思い。
『伊勢路』ネタ。
そもそも、徒歩で熊野道を制覇する気はないんですがその片鱗は感じたいなぁなんてね。
そう言う訳で、調べとくにこした事は無いでしょう。
さて、起点を『田丸』としている理由あたり。
そもそも、田丸は現在玉城町(昭和30年、「所謂昭和の大合併」の時期に合併)と言うらしいですね。
駅名は残ってるけど。

伊勢といえば、赤福かなぁということで赤福本店。

で、なんで田丸だったんだろうという話なんだけどここは南北朝時代に北畠親房が南朝側の指導者として度会家行の援護を受けてた時代に城を造った場所。
結果はご存知の通り、南朝敗北で北畠親房は賀名生で死去。
城は廃城となると思いきや、伊勢神宮を押さえる要として北畠家が再建。
戦国時代には信長の伊勢侵攻に伴い、織田家の居城の一つになるが時代が時代だけに巡り巡り最終的には紀州徳川家の所領となりその附家老の一人久野氏の居城となり明治時代まで。
という訳で、1300年代中盤から明治期までまぁ常に時代時代にそこそこ権力のある人たちに庇護されていたという理由もあり栄えていたようです。
そのため、宿場としても整理されていたので拠点になったようですね。

神宮の大木は、荘厳さと畏敬を感じさせられます。やはり、神域は静謐でいいなと。

熊野詣に向かう人々も、一生に一度の旅なんで折角なので伊勢によりついでに西国33箇所という道行きをとる人が少なくなかったようです。
当然ですが、このルートは東国(江戸方面ね)の旅人が通るルートです。
梁塵秘抄でも歌われている位のルートなのですが、実際に頻繁に使われるようになったのは江戸時代。
やはり、伊勢界隈が紀州徳川家の預かりとなり初代藩主の徳川頼宣が一里塚や宿場を整備して行ったのが隆盛になった最大の要因なんでしょうね。
いわゆる『伊勢講』が盛んになるのは1700年頃。
その頃が、伊勢路が最も隆盛を極めたあたりになるよう(あ、もちろん「えじゃないか」までね)。
参宮にあたっては精進潔斎が基本となるので、古市は帰り道の道程の御楽しみになる訳だったりですがその後熊野にもうでる人はまだまだ精進潔斎が続くため起点を田丸としたというのが真相かなぁ。

お参りの前は、必ずお清めですね。最近は、この手水鉢もハイテク化していきていますが。

そもそも、伊勢神宮界隈は神領なので宿等があるわけではないので田丸が宿となり「起点は田丸」といわれるようになったと言う事かな。
確かに、旅の疲れを田丸で癒しお伊勢さんに詣でて熊野を目指すと言うルートを取るとき拠点は田丸となるので言い方としては起点となるのかな?
「気分的」には皇大神宮を起点としてるんだけど、「実質的」には田丸が起点となる。
僕の解釈としては、そんな感じです。
古い文献を調べてもその考え方はまちまちで、田丸は皇大神宮を起点としたときの伊勢路で一番目の宿場町であって実際の『伊勢路』は「皇大神宮」から「熊野三山」までとなっているため(これは、紀州徳川家がこの地区を治めてからの考え方らしいけど)「田丸-皇大神宮間」は『伊勢街道』と『伊勢路』がクロスオーバーしていると考えていたものもちらほらある模様。
まぁ、今一番ポピュラーな考え方が「田丸を伊勢路の起点とする」と言う考え方なんでしょうね。
しかし、この界隈は調べてみると面白いですね。
何しろ、神宮と言う特別な場所があるが故に様々な思いが歴史とともに交錯していて。
今回調べてみて思ったんだけど、地名となっている度会家が今どんな感じなのかも興味津々。

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