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【伝統行事】大宮八幡宮で、流鏑馬見て来ました!

いやー、やっぱ本物は凄いや!!
週末は、龍さんと一緒に流鏑馬神事を大宮八幡で見てきました。
大宮八幡宮御鎮座九百五十年流鏑馬神事。
由緒正しき、小笠原流です。
http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/
子供には、本物を見せるべきだなと、改めて思った週末でした。

【歴史雑記】さて、伊勢路とか

来週には、伊勢方面なので。
たまたま、mixiの某板で絡まれまして。
別段あれだったのですが、ちょっと調べてみたいなぁと思い。
『伊勢路』ネタ。
そもそも、徒歩で熊野道を制覇する気はないんですがその片鱗は感じたいなぁなんてね。
そう言う訳で、調べとくにこした事は無いでしょう。
さて、起点を『田丸』としている理由あたり。
そもそも、田丸は現在玉城町(昭和30年、「所謂昭和の大合併」の時期に合併)と言うらしいですね。
駅名は残ってるけど。

伊勢といえば、赤福かなぁということで赤福本店。

で、なんで田丸だったんだろうという話なんだけどここは南北朝時代に北畠親房が南朝側の指導者として度会家行の援護を受けてた時代に城を造った場所。
結果はご存知の通り、南朝敗北で北畠親房は賀名生で死去。
城は廃城となると思いきや、伊勢神宮を押さえる要として北畠家が再建。
戦国時代には信長の伊勢侵攻に伴い、織田家の居城の一つになるが時代が時代だけに巡り巡り最終的には紀州徳川家の所領となりその附家老の一人久野氏の居城となり明治時代まで。
という訳で、1300年代中盤から明治期までまぁ常に時代時代にそこそこ権力のある人たちに庇護されていたという理由もあり栄えていたようです。
そのため、宿場としても整理されていたので拠点になったようですね。

神宮の大木は、荘厳さと畏敬を感じさせられます。やはり、神域は静謐でいいなと。

熊野詣に向かう人々も、一生に一度の旅なんで折角なので伊勢によりついでに西国33箇所という道行きをとる人が少なくなかったようです。
当然ですが、このルートは東国(江戸方面ね)の旅人が通るルートです。
梁塵秘抄でも歌われている位のルートなのですが、実際に頻繁に使われるようになったのは江戸時代。
やはり、伊勢界隈が紀州徳川家の預かりとなり初代藩主の徳川頼宣が一里塚や宿場を整備して行ったのが隆盛になった最大の要因なんでしょうね。
いわゆる『伊勢講』が盛んになるのは1700年頃。
その頃が、伊勢路が最も隆盛を極めたあたりになるよう(あ、もちろん「えじゃないか」までね)。
参宮にあたっては精進潔斎が基本となるので、古市は帰り道の道程の御楽しみになる訳だったりですがその後熊野にもうでる人はまだまだ精進潔斎が続くため起点を田丸としたというのが真相かなぁ。

お参りの前は、必ずお清めですね。最近は、この手水鉢もハイテク化していきていますが。

そもそも、伊勢神宮界隈は神領なので宿等があるわけではないので田丸が宿となり「起点は田丸」といわれるようになったと言う事かな。
確かに、旅の疲れを田丸で癒しお伊勢さんに詣でて熊野を目指すと言うルートを取るとき拠点は田丸となるので言い方としては起点となるのかな?
「気分的」には皇大神宮を起点としてるんだけど、「実質的」には田丸が起点となる。
僕の解釈としては、そんな感じです。
古い文献を調べてもその考え方はまちまちで、田丸は皇大神宮を起点としたときの伊勢路で一番目の宿場町であって実際の『伊勢路』は「皇大神宮」から「熊野三山」までとなっているため(これは、紀州徳川家がこの地区を治めてからの考え方らしいけど)「田丸-皇大神宮間」は『伊勢街道』と『伊勢路』がクロスオーバーしていると考えていたものもちらほらある模様。
まぁ、今一番ポピュラーな考え方が「田丸を伊勢路の起点とする」と言う考え方なんでしょうね。
しかし、この界隈は調べてみると面白いですね。
何しろ、神宮と言う特別な場所があるが故に様々な思いが歴史とともに交錯していて。
今回調べてみて思ったんだけど、地名となっている度会家が今どんな感じなのかも興味津々。

【歴史ネタ】昔、マンガで読みました:蘇我入鹿の邸宅跡か 奈良・明日香村ふもとで建物跡出土

共同通信より:発掘風景

『蘇我入鹿の邸宅跡か 奈良・明日香村ふもとで建物跡出土 2005年11月13日20時58分』
「奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)(標高148メートル)のふもとにある甘樫丘東麓(とうろく)遺跡で、掘っ立て柱建物5棟や塀などの遺構が見つかった。奈良文化財研究所が13日、発表した。94年には約20メートル南東で大量の焼けた壁材や木材、土など(7世紀中ごろ)が出土しており、そのすぐ近くで発見されたことで、今回の建物跡は、大化改新のクーデターで倒れた権力者、蘇我入鹿(そがのいるか)の焼け落ちた邸宅跡の可能性が高いという。同研究所は周囲の発掘を続け、日本書紀が描く蘇我氏滅亡のドラマを裏付けたい考えだ。 (article from asahi.com)」
何だか、国営飛鳥歴史公園の整備をして居たら見つかったらしい。
凄いね。
そういえば、マンガ日本の歴史でそのシーンを何度も読んだので覚えてる。
国家に逆らった罪で蘇我入鹿が首をはねられて、父親の蝦夷の邸宅も燃やされて蘇我氏が滅亡するシーン。
「何か、昔は野蛮だなぁ」って思いながら、何度も読んだのを覚えてる。
11月16日午前10時〜午後3時に見学会だそうだ。
行きたいなぁ……。
しかしね、なかなか難しいなと思うのは歴史解釈の問題。
さてはて、本当に蘇我氏は悪かったのかという話。
どの時代においても、主流派と反主流派が存在するのが世の常。
蘇我氏は、たまたま主流派に居たんだけどその後権力が移っちゃってやられるという構図だよね。
ま、これも仕方の無いこと。
多分、僕たちが歴史を習った時の解釈と今では色々様変わりしてるんだろうなぁ。

【伝統と言葉】犬矢来[いぬやらい]

2006年1月、京都の東本願寺界隈での写真。当時は、よく京都に遊びに行っていました。まぁ、DJやっていたというのもあるし、何より子供いなくて気軽な暮らしだったのもありますねw。

犬矢来【いぬやらい】
円弧状の反りのついた割竹や細い桟木を並べた柵のこと。
大概の場合、家の外側には石や砂利で作られた「犬走り」がありその上にかけられたもの。
そもそも、「犬走り」というくらいで「犬走り」の上では犬の粗相が多々あり悩まされることが多かった模様。その対策としてできたのが、「犬矢来」の始まりだったとか。

でも、それ以外にも京都なんかでは祇園は繁華街というのもありたっしょん避けと言う意味合いもあったということを他のブログで読んで納得するとともに笑っちゃいました。
泥棒避けの意味合いもあったみたいです。あら、人避けやん!
花街では、雨宿りをさせないという目的もあった模様。何せ、料亭と言えば密談!「越後屋、お主も悪よのう。」とか話てるの、丸聞こえだったら皆使わないもんねw。
横道にそれましたが、泥はねや雨滴から建物外壁の損傷を防ぐためにも活用できるということで、京都祇園の町屋などの外側に配置され今でも日本的情緒を感じること多々あります。
似たような感じの「駒寄せ(別名:駒繋ぎ、牛繋ぎ)」との大きな違いはこちらの多くが可動式であるということ。
そういう訳で、掃除もしやすい!
「駒寄せ」が何故固定式かというと、その名の通り馬や牛を繋いでおくために発展してきたものだから。
そういう歴史を知ると、また何だか感慨深いものがありますねぇ。

こちらが駒寄せ。此の写真も、東本願寺界隈です。駒寄は、いろんなデザインがあっておもろいです。なんとなく、テリトリーを緩やかに表す道具としても機能していたのではないかなぁと思います。

ちなみに「矢来」とは細い竹や丸太を菱形に組んだもので、別名「刑場垣」。
時代劇で磔【はりつけ】にされてるシーンとかで、竹を組んで人避けしてるシーンとか出てくるでしょ。
あれが、そもそも。
「矢来=ヤライ」はそもそも音から来ていて「遣ひ【やらい】」の音が大本で、「入るを防ぐ」という言葉を意味している。
戦国時代に仮城を組む時とかにも、使われていたみたいです。