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【都市と文化】大宮八幡宮で、流鏑馬見て来ました! 130526

いやー、やっぱ本物は凄いや!!
週末は、龍さんと一緒に流鏑馬神事を大宮八幡で見てきました。
大宮八幡宮御鎮座九百五十年流鏑馬神事。
由緒正しき、小笠原流です。
http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/
子供には、本物を見せるべきだなと、改めて思った週末でした。

【都市と文化】さて、伊勢路とか 071009

来週には、伊勢方面なので。
たまたま、mixiの某板で絡まれまして。
別段あれだったのですが、ちょっと調べてみたいなぁと思い。
『伊勢路』ネタ。
そもそも、徒歩で熊野道を制覇する気はないんですがその片鱗は感じたいなぁなんてね。
そう言う訳で、調べとくにこした事は無いでしょう。
さて、起点を『田丸』としている理由あたり。
そもそも、田丸は現在玉城町(昭和30年、「所謂昭和の大合併」の時期に合併)と言うらしいですね。
駅名は残ってるけど。

伊勢といえば、赤福かなぁということで赤福本店。

で、なんで田丸だったんだろうという話なんだけどここは南北朝時代に北畠親房が南朝側の指導者として度会家行の援護を受けてた時代に城を造った場所。
結果はご存知の通り、南朝敗北で北畠親房は賀名生で死去。
城は廃城となると思いきや、伊勢神宮を押さえる要として北畠家が再建。
戦国時代には信長の伊勢侵攻に伴い、織田家の居城の一つになるが時代が時代だけに巡り巡り最終的には紀州徳川家の所領となりその附家老の一人久野氏の居城となり明治時代まで。
という訳で、1300年代中盤から明治期までまぁ常に時代時代にそこそこ権力のある人たちに庇護されていたという理由もあり栄えていたようです。
そのため、宿場としても整理されていたので拠点になったようですね。

神宮の大木は、荘厳さと畏敬を感じさせられます。やはり、神域は静謐でいいなと。

熊野詣に向かう人々も、一生に一度の旅なんで折角なので伊勢によりついでに西国33箇所という道行きをとる人が少なくなかったようです。
当然ですが、このルートは東国(江戸方面ね)の旅人が通るルートです。
梁塵秘抄でも歌われている位のルートなのですが、実際に頻繁に使われるようになったのは江戸時代。
やはり、伊勢界隈が紀州徳川家の預かりとなり初代藩主の徳川頼宣が一里塚や宿場を整備して行ったのが隆盛になった最大の要因なんでしょうね。
いわゆる『伊勢講』が盛んになるのは1700年頃。
その頃が、伊勢路が最も隆盛を極めたあたりになるよう(あ、もちろん「えじゃないか」までね)。
参宮にあたっては精進潔斎が基本となるので、古市は帰り道の道程の御楽しみになる訳だったりですがその後熊野にもうでる人はまだまだ精進潔斎が続くため起点を田丸としたというのが真相かなぁ。

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【歴史ネタ】昔、マンガで読みました:蘇我入鹿の邸宅跡か 奈良・明日香村ふもとで建物跡出土

共同通信より:発掘風景

『蘇我入鹿の邸宅跡か 奈良・明日香村ふもとで建物跡出土 2005年11月13日20時58分』
「奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)(標高148メートル)のふもとにある甘樫丘東麓(とうろく)遺跡で、掘っ立て柱建物5棟や塀などの遺構が見つかった。奈良文化財研究所が13日、発表した。94年には約20メートル南東で大量の焼けた壁材や木材、土など(7世紀中ごろ)が出土しており、そのすぐ近くで発見されたことで、今回の建物跡は、大化改新のクーデターで倒れた権力者、蘇我入鹿(そがのいるか)の焼け落ちた邸宅跡の可能性が高いという。同研究所は周囲の発掘を続け、日本書紀が描く蘇我氏滅亡のドラマを裏付けたい考えだ。 (article from asahi.com)」
何だか、国営飛鳥歴史公園の整備をして居たら見つかったらしい。
凄いね。
そういえば、マンガ日本の歴史でそのシーンを何度も読んだので覚えてる。
国家に逆らった罪で蘇我入鹿が首をはねられて、父親の蝦夷の邸宅も燃やされて蘇我氏が滅亡するシーン。
「何か、昔は野蛮だなぁ」って思いながら、何度も読んだのを覚えてる。
11月16日午前10時〜午後3時に見学会だそうだ。
行きたいなぁ……。
しかしね、なかなか難しいなと思うのは歴史解釈の問題。
さてはて、本当に蘇我氏は悪かったのかという話。
どの時代においても、主流派と反主流派が存在するのが世の常。
蘇我氏は、たまたま主流派に居たんだけどその後権力が移っちゃってやられるという構図だよね。
ま、これも仕方の無いこと。
多分、僕たちが歴史を習った時の解釈と今では色々様変わりしてるんだろうなぁ。

【都市と文化】素晴らしい試み:金沢に於ける旧町名復活

祭繋がりで、『長崎くんち』を調べていたら「銀屋町鯱太鼓」のページに行き当たりまして。
現在の古川町の界隈の昭和41年の悪名高き町界町名改正前の地名は、「銀屋町」だったそうでその名前を復活させるべく動いている模様です。
「その手があったか!」
正直、気付きませんでした。
いや、ここのところあの改正と同様の補助金を人質に取った中央集権的圧力による市町村合併が進められてるじゃないですか。
あの所為で、気付いてない人も多いかもしれませんが日本全国でまた地名が消えて行ってるんですよ。
そればかりか、市町村名を「ひらがな」や「カタカナ」に変える市町村まで出てくる始末……。
そんな中、金沢市ではその馬鹿げた時代の流れに逆行する様に金沢市では旧町名復活に向けて動いているようなんです。

photo from https://mainichi.jp/articles/20161115/org/00m/040/011000d

「旧町名は土地の歴史を刻み、住民の暮らしを示し、自然を映した、その土地に固有の、かけがえのない名前です。よく「地名は貴重な歴史遺産であり、文化遺産である」と言われますが、まさにそのとおりです。……例えば、鷹匠町は現在 の石引四丁目の一角で、鷹を操った匠が住んでいたという謂(いわ)れを持っています。そういう町の謂れを知れば、住んでいる人は自分の町に愛着や誇りを持つはずです。そうすれば、ゴミを放っておくことはできない、隣近所とも仲良くしよう、子どもたちも大事 にしなければならない、という気持ちがわいてきます。私は、そこを大事にしたいのです。」ここなんですよね。
今日、川越祭に行って思ったんですが町はその祭りによって何だか連携してるんですよね。かつ、その曳航されている山車は殆ど旧町界の括りで分かれている様子。
そう言うの見てると、「ああやっぱり大事だよな。こういうの。」って思うんです。
神田界隈も、地元の意思で残した地名が結構あって面白い事になってるし。
しかし、国家公務員による行政の変更を地方自治体から申し入れてそれが通過するという事を初めて知りました。
この国って、何でも一律化したがるけど結構そういうボトムアップもありだったんですね。ちょっと見直した。
この調子で、色んな自治体が歴史的に意味のある地名の復活に向けて動いてくれるともっと文化の豊かな国になりそうな予感です。その事に期待。
やっぱね、文化は大事だよね。未来の日本の存在意義の為にも。

【追記】残念ながら、ここで書いていた鷹匠町は復活していないのですが、金沢市内で複数の旧町名が復活しています(旧町名復活区域位置図(現在))。たとえ国が決めてしまったことでも、その土地に根ざした人々が改めて考え、自分たちの意思で再構築することで地方の存在意義が出てくるのではないでしょうか?考え、そして行動することができる地域はその先に向かう未来に向かって歩を進めることができると思うのです。昨今、少子高齢化が進み今まで通りでは様々なことが立ち行かないことが言われています。確かに、昔に比べ利便性が上がったのが戦後。だけど、その全てを維持しようと考えることに無理があるのも現実です。「残すもの」「捨てるもの」「新しく作るもの」。それぞれを丁寧に、その土地に住む人々が考え整理し、新しい形を作ること。これができれば、地方がなくなることはない気がしています。だって、丁度100年前1920年(大正9年)の日本の人口55,96万人だからさ。たった100年で倍に増えたことの方が異常だよw(2019/02/23 Noise)

【都市と文化】犬矢来[いぬやらい] 050921

2006年1月、京都の東本願寺界隈での写真。当時は、よく京都に遊びに行っていました。まぁ、DJやっていたというのもあるし、何より子供いなくて気軽な暮らしだったのもありますねw。

犬矢来【いぬやらい】
円弧状の反りのついた割竹や細い桟木を並べた柵のこと。
大概の場合、家の外側には石や砂利で作られた「犬走り」がありその上にかけられたもの。
そもそも、「犬走り」というくらいで「犬走り」の上では犬の粗相が多々あり悩まされることが多かった模様。その対策としてできたのが、「犬矢来」の始まりだったとか。

でも、それ以外にも京都なんかでは祇園は繁華街というのもありたっしょん避けと言う意味合いもあったということを他のブログで読んで納得するとともに笑っちゃいました。
泥棒避けの意味合いもあったみたいです。あら、人避けやん!
花街では、雨宿りをさせないという目的もあった模様。何せ、料亭と言えば密談!「越後屋、お主も悪よのう。」とか話てるの、丸聞こえだったら皆使わないもんねw。
横道にそれましたが、泥はねや雨滴から建物外壁の損傷を防ぐためにも活用できるということで、京都祇園の町屋などの外側に配置され今でも日本的情緒を感じること多々あります。
似たような感じの「駒寄せ(別名:駒繋ぎ、牛繋ぎ)」との大きな違いはこちらの多くが可動式であるということ。
そういう訳で、掃除もしやすい!
「駒寄せ」が何故固定式かというと、その名の通り馬や牛を繋いでおくために発展してきたものだから。
そういう歴史を知ると、また何だか感慨深いものがありますねぇ。

こちらが駒寄せ。此の写真も、東本願寺界隈です。駒寄は、いろんなデザインがあっておもろいです。なんとなく、テリトリーを緩やかに表す道具としても機能していたのではないかなぁと思います。

ちなみに「矢来」とは細い竹や丸太を菱形に組んだもので、別名「刑場垣」。
時代劇で磔【はりつけ】にされてるシーンとかで、竹を組んで人避けしてるシーンとか出てくるでしょ。
あれが、そもそも。
「矢来=ヤライ」はそもそも音から来ていて「遣ひ【やらい】」の音が大本で、「入るを防ぐ」という言葉を意味している。
戦国時代に仮城を組む時とかにも、使われていたみたいです。