【思い出した事】結局、笹原が一番学んだ事を体現したのか?

大学時代、海老塚先生の指導のもと”TAMA VIVANT”という学内とはいえ結構本格的な展覧会に関わっていた。
そのメンバーは、同学年で5名。
そのうち、一名は今は製作の現場に居て一名はライターをしているらしいという事は何となく聞いている。
同性の子は、一時期WEB会社を地元で立ち上げ結構手広くやっていたのは知っているがその後どうしているのかはもう解らない。
正直、笹原は一番「彼女はどうしているんだろう?」と思っていた人だった。
華やかな服装を好み、社交的。
が、基本的にのめり込み型の芸術オタク気質が強かった僕はちょっとこう真っ正面から接する事が無かった子。
卒業後、なんだかギャラリーに勤める事になったという事は聞いていた。
が、それが「レントゲンウェルケ」だったって言うのは知らなかった。
一世を風靡した梅屋敷にあったギャラリー「レントゲン藝術研究所」。
現代美術の業界では、マニアックで有名な場所だった。
ここを知らない人でも、下記のアーティストの名前は聞いた事があるはずだ
■飴屋法水
■村上隆
■ヤノベ ケンジ
■八谷 和彦
■会田誠
この人たちを繋ぐ場、それが『レントゲン藝術研究所』。
■椹木野衣
この人も、ここでキュレーションを行っている。
そう、僕らの時代。マニアックなアートを好む人たちの憧れの場所だったのだ。
そう言えば、当時僕が崇拝してた『三上晴子』もここを拠点として活動してたんだけど今は多摩美の准教授やってるのね。
その後、この『レントゲン藝術研究所』は『レントゲンクンストラウム』に形を変え(この時点で梅屋敷を離れるんだけど僕に取ってのイコンとしてのレントゲンはここまで)、そして今は「レントゲンヴェルケ」として六本木に棲息していたり。
北九州に生まれ育った僕に取って、工場や倉庫そして廃墟というのはある種の原風景でその場に「現代美術」があるという『場』が僕を魅了して止まなかったんですよね。
その、「レントゲンヴェルケ」に笹原が身を置いていたという事実にビックリすると同時に昨年自分名義のギャラリーをオープンしたという事実にもっとビックリした。
その名も、「Yuka Sasahara Gallery」。
正直、彼女はもっと華やかな『場』を求めて出て行く子だと思っていた。
しかしながら、実のところ一番学んだ所に近い『場』に身を置いていたんだなとちょっと感慨。
今度、足を運んでみよう。
シャンパンでも持って。
でも、僕は多分違う意味であの時代を含む「自分が生きた道」を体現しようとしてるという事実だけは記述しておく。
そう、忘れた訳でも捨てた訳でもないの。
ナンだろう、方法論が違う。そう言う事なのだろう。
しかし、凄いなぁ。
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Yuka Sasahara Gallery
〒162-0812 
東京都新宿区西五軒町3-7 高橋工芸社ビル3F
・東西線「神楽坂駅」より徒歩5分、大江戸線「牛込神楽坂駅」より徒歩8分
11:00-19:00 日・月・祝日定休
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2件のフィードバック

  1. 山ぱ より:

    ・・・レントゲン藝術研究所
    うわー、すっごいひさぶりに名前きいたと思ったら
    こういう系譜で、しかもノイ兄と縁あった(というべきなのか?)のですねえ
    キュレーター目指してルーブル美術学院留学考えた頃に、国内ネタでここのこと書こうとしたなあ
    う〜ん

  2. NOISE より:

    やすこ様>
    って、あんた一体いくつなのさw。
    僕は、タイムリーにあの場を体験して熱狂してたんだけど実際凄い存在感だったんだよね。
    レントゲン。
    僕自身は、作家を目指してたんだけどそもそも根気が無いので駄目ですたw。
    グランギニョルとかも、好きだったんだよねー。

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